霊訓を考えてみる2


永遠の生命


Q.人間として地上に誕生してくるのは、進化のどの段階でしょうか?

■A.霊としては常に存在していました。霊とは生命であり、生命とは霊だからです。あなたという存在は、常に存在してきたのです。あなたも大霊の一部ですから、いつから存在し始めたという”始まり”はないのです。しかし、一個の独立した意識的存在としては、生命の流れの中のどこかで存在を得なければなりません。

受胎というのは、男性と女性の細胞が合体して、その個的存在に自我を表現する媒体を提供する現象です。媒体を得るまでは、生命力は発現しないのです。その媒体を提供するのが、地上の両親です。双方の細胞が合体して一個の生命体を形成した時点で、霊的粒子がそれに付着し、物的世界での表現を開始します。それが意識の始まりだというのが私の説です。その瞬間から意識のある個的生活が始まります。それからは永遠に個的実在であり続けます。


Q.人間は究極的にどうなるのでしょうか?

■A.究極の運命ですか?私は「究極」のことは何も知りません。始まりと終わりについては、私はどう扱っていいのかわかりません。生命には限りがないのです。進化も無限に続くのです。サイクルには、終わりも始まりもありません。生成発展は、無限に続くのです。

■進化の極地は涅槃(ねはん・ニルバーナ)に到達することではありません。霊的進化は、個性の無限の開発へ向けての歩みです。個性が薄らいでいくのではなく、逆に鮮烈になっていくのです。潜在能力が開発され、より多くの知識を身につけ、性格が強化され、神性がますます発揮されていきます。大霊は無限の存在ですから、開発は無限に続きます。完全というものは達成されません。完全へ向けての無限の努力が続くのです。自分を失うことは永遠にありません。逆に、永遠に自分を発見していくのです。




これをお読みになってどう感じられたでしょうか?あなたが永遠の生命に肯定的な立場であることを前提としますが、僕は「怖い」んじゃないかなぁと予測します。永遠に自分が存在し続けるなんて怖すぎる。消えてしまいたい、と。数十億年、いや、それ以上生き続けるなんて聞いただけでウンザリすると。しかし、これには重要な予備知識があります。



■こちらの世界には”時間”というものがないのです。地球の自転によって昼と夜とが生じるようなことがないからです。昼と夜とで一日、といった計算をすることがない世界において、どうやって昨日と今日とを区別するのでしょう?

Q.時間の単位はなくても、時間の経過はあるのでしょう?

■A.それもありません。まわりで生じる変化との関連において成長と進化を意識することはありますが、時間の経過はありません。霊的な成長と、それに伴う環境の変化があるのみです。時間というのは、そうした変化との関連における尺度にすぎません。無意識でいる間は時間は存在しません。環境との関係が変わったからです。夢の中では環境との関係が変わっていますから、肉体につながれている時よりも物事が早く推移するわけです。



この問題に関して例を挙げるとしたら、あの世は「明晰夢」と同じ世界だということが言えると思います。明晰夢というものはご存知でしょうか。夢の中でこれは夢だと気付く夢、夢の中で能動的に振舞うことのできる夢のことです。観た経験のある方は分かると思うのですが、「時間からの解放」と「自意識」の両立した世界だということが言えるのではないかと思います

(ただし、実際の死後は夢のようなぼんやりとした世界ではありません。夢は『幽体』の見たもの、死後は『霊体』、というように意識には階層があるそうで、それによって認識差が生じるようです。霊体で過ごす死後の世界は地上以上にはっきりとした”質感”があるそうです)。

また、自縛霊という存在があります。自分が霊だということを自覚していない霊です。テレビで霊能者が自殺の名所などに行って、「あそこに血を流した女性がこっちを恨めしそうに見ている」などと言っているのをご覧になった事がある方は多いと思いますが、僕はそれまでそうした言葉を耳にする度に「どうしてそんなところにずっと居て飽きないのだろう?」と思っていたんですよね。そう思って怪しんだことはありませんか?

なんらかの能力があるから職業霊能者としての生活が成り立っているのだろうとは思いましたが、霊のそうした不可解な生態が理解できずにいました。霊訓を読んだ後、ああいう幽霊騒動も「彼らが時間の無い世界の住人だからこそ飽きないのだ」と考えてはじめて納得が行ったように思います。



以上のことを踏まえた上で、永遠の生命をあなたはどう感じられるでしょうか。因果律の問題と併せて「永遠に続く因果律」と言えるわけですが、僕は以前因果律のところで書いたように、こうした事実に深い感動、安心感を覚えています。時間からの解放は退屈からの解放だと思いますし、そうしたことも勿論嬉しいのですが、やはり僕は今どれだけ逆境にあろうと施した事はいつか必ず、確実に返ってくるということにより大きな感動を覚えます。

今まで悪い行為、想念ばかり発していたかも知れませんが、まだ個性を獲得してから数十年しか経っていないんです。個の意識としては永遠はまだはじまったばかりです。やり直そうと思えばまだまだ全然修正が出来るんです。続けようと思えば、永久に良い循環を続けていく事が出来るんです。

あの世を信じているという人でも仏教系の人に限らず、「そうやって進歩して行っていつかは神に吸収される」と思われている人が多いように思います。「存在そのものになる」と。しかしそうした考えは「生命はこの世限り」というものと大差ないように思います。あの世があっても、どうせいつか個性が消えてしまうというのなら空しいだけではないでしょうか。僕が以前新新宗教の本に触れていた頃に感じていた、漠然とした空しさの要因の一つがこうした点にあったと思います。

教祖はあと一歩で消える事が出来るのに、自分はまだまだであると。そうした上下関係に心の底ではウンザリしていたように思います。あの世が時間の無い世界だということも知りませんでしたので、早く消してくれと思っていました。自分が実は高級霊で、あと一歩で消えることが出来るなどと夢想したりもしていました。このように有限の個性を主軸に据えると、上下関係を意識せずにはいられなくなってしまうと思うんですよね。

「早く悟りたい、早く教えてくれ」と。次第に競争社会が形成され、そうした心の隙間からいつの間にか現世利益の商売が成り立っているのだと思います。今から考えると有限の個性とは、「教祖のための思想」のように感じます。少なくともヒエラルキーを形成するのに都合が良いということは言えるのではないでしょうか。



しかし上述したような永遠の視点から見たら、あらゆる地上の上下関係に大した意味を見出せなくなるような気がします。今の世の中では綺麗事でしかない”平等”の観念などは、この永遠という視点からしか得られることはないのではないかと思います。我々人間は絶対的な因果律の中に生きていて、無限の道のりのホンの僅か先を行く者、ホンの僅か後を行く者、というだけに過ぎないというのですから。

僕は順を追ってこうしたことを受け入れたわけで、これ以上書くことは先走り過ぎている気がしないでもないので控えますが、あなたがいつかシルバーバーチの霊訓を読まれ、60年に渡って語られた教訓に矛盾が見当たらないことに感動される時が来るとしたら、この永遠の生命、永遠に続く因果律の教えが燦然と輝きながらあなたを包んでくれることと思います。2004.2.17



親を選んで生まれてきた


Q.自分の身体を自分で選んだということは、親も自分で選んだということですか。

■A.むろんです。賢明なる子は親のことを良く知っております(賢明なる親はわが子のことをよく知っている、というシェークスピアのセリフを言いかえている)


アダルトチルドレン(「安全な場所」として機能しない家族のなかで育った人のこと)という言葉があって、僕もその手の本を読んで何年も考え続け、ネットを通じて色々な人と話し合ったりしたこともあるのですが、でも振り返ってみると考えれば考えるほど深みに入って行ったように思うんですよね。

「■スピリチュアリズムってなに?」というページに書いたような、『一時気分が高揚して冷めて、また答え探しに精を出す。生きづらさや抑鬱からいつまでも離れることが出来ず、延々同じことを繰り返している。時には勇気を貰って実際に行動してみるが、いつも最後には傷ばかりが増えたように感じる』、こんな状態だったように思います。



アダルトチルドレン(以下AC)のチェック項目というものがあって、自分を照らし合わせてみますと、

 1 ACは何が正常かを推測する(「これでいい」との確信が持てない)
 2 ACは物事を最初から最後までやり遂げることが困難である
 3 ACは本当のことを言った方が楽なときでも嘘をつく
 4 ACは情け容赦なく自分に批判を下す
 5 ACは楽しむことがなかなかできない
 6 ACはまじめすぎる
 7 ACは親密な関係を持つことが難しい
 8 ACは自分にコントロールできないと思われる変化に過剰に反応する
 9 ACは他人からの肯定や受け入れを常に求める
10 ACは他人は自分と違うといつも考えている
11 ACは常に責任をとりすぎるか、責任をとらなすぎるかである
12 ACは過剰に忠実である。無価値なものとわかっていてもこだわり続ける
13 ACは衝動的である。他の行動が可能であると考えずにひとつのことに自らを閉じこめる

僕は正直に言って今でも多くのことに心当たりがあり、特に7番目の項目が非常に当てはまるように思います。「団らん」というものが苦手なんですよね。「ACなど殆ど誰にでも当てはまる」という意見もあり、それも尤もだと思っているということを前提に書きますが、とにかく今でも僕は家族的団らんの居心地が悪いことには違いありません。



しかし、こうしたことを分析することが解決に結びつくわけではないと今では強く思っています。肝心な点は、ACであることとそれを見つめることは別問題だということです。自分にあまり興味関心を向けないようになった今では、無意味なマイナス思考からはかなり解放されたというのは前に記した通りです。

世の中には”安心できない家庭に育ち、さんざん悩み苦しんだけどそれを乗り越えた”という人はたくさん居ると思うのですが、そうした人に共通している点は、何かをきっかけとして「利他の人」になったということだと思うんですよね。きっかけはどうあれ他人に矢印が向き、日常的に施しをはじめた人だと思うんです。

僕はまだシルバーバーチを知って日が浅いということもあってか、行動と思考のギャップはあるのですが、でもいつか必ず(それはもしかして地上人生ではないかも知れませんが)この団らんへの違和感は埋まるものだという、方向性の正しさについては確信に近いものを持っています。

「親を選んで生まれてきた」ということは人によってはなかなか受け入れられないことと思いますが、こうした事を受け入れることが、ACの本を読んだりして分析するよりも遥かにシンプルで効率が良かったということは、この時点でも自身の経験から胸を張って言うことが出来ます。自分で選択した苦しみだという認識は、苦しいばかりと思っていた宿命をはじめて前向きに考えさせてくれたように思うんです。2004.2.24



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