何らかの意味で区切りが付いたらブログサイトに移行し、「時事ネタ(B級ニュースが中心)と摂理」みたいなテーマで取り敢えず1年くらい書こうかな、などと考えていたんだけど、まさか強迫性障害と折り合いが付くとは思ってなかったんだよね(今も順調に症状は減少している)。こういう展開になったらなんとなくインターバルを置くのが正解のような気がするので、この「おもうこと」は今回で終了ってことにする。中途半端なトップページの更新はもしかしたらあるかも知れないけど^^;
タメ口で生意気な事もたくさん書いてきたと思うんだけど、このページを書くに当たって「昔の自分のような人に」というのが頭にあった。10代後半〜20代半ばくらいまでの道を失って混乱している人を対象に書いたつもり。それは僕自身が一番苦しかった時代でもある。そういう年下の自分より未熟な個人を想定して書いたってことで、それ以外の方にはどうかご容赦願いたい。
あと正直に書くけど、霊訓に書いてあるような生き方をしようと思うと苦労が増えますよ。次から次へと苦労が沸いて出てくる。苦労を自ら買って出なくても向こうから来るよ。でも気楽になれるんですな。摂理に沿って頑張ればなんとかなると思って楽観視できるようになった。今の方がずっと楽しい。
今まで読んでくれた人ありがとう。僕はこれからも因果律、そして霊訓と共にありますよ。
じゃあまたね!
シルバーバーチ「因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力をもつ者は一人もいません」
僕にとってはこの言葉が全てだといってもいい。このHPの事を、「・・・ほらあそこなんて言ったっけ。消滅できるとかできないとかいう、シルバーバーチ信者の・・・」と言う人が居るとしたら心外なんですね。シルバーバーチの個性も好きなんだけど、シルバーバーチじゃなくても完璧な因果律を説いているものならなんでもアリだと思っているんです。数少ないと思うけど^^; 完璧な因果律の存在こそが心の奥深くまで響き、日々生きる支えになってる僕なんだけど、これは科学では証明しようのないことだから信者と呼ばれてもいい。でもシルバーバーチ信者じゃなくて因果律信者だということね。
ではシルバーバーチ等スピリチュアリズム以外に、精神世界系で認めているものってなにがあるの?と尋ねられたら、まずはバッチフラワー(代表的なフラワーエッセンス。野生の花から採取した波動を飲むことによって、精神のバランスを整えて自然治癒力を高めることができる)を挙げたい。心でも身体でも病というのは直截的で分かりやすい。効く時は効くけど効かない時は全く効かない。順序があり時期が来なければ作用しない。霊的ヒーリングと同じで背景に因果律が説かれていると思うんだよね。
気とか波動とかいったって、絶対に因果律を無視出来ないんだと思ってやってる。手に入れた感覚は訓練の賜物だと思っているし、これによって棚ぼた的な幸運を得た事は無いんだけど、もし得ても喜びながら「マイナス1」ってカウントしようと思ってる。世の中に因果律を説いてる本って一応はたくさんあると思うんだな。「摂理とは因果律です」って。しかしそうした主張がある一方で、「こうすれば良い事が起きます」、「こう考えれば楽になります」って書いてあんのね^^;
そんなもん全然因果律じゃない。物質界の法則を駆使して良い事を引き寄せたとしたって、そんなものは美味いものを先に食っちゃうようなもので後からシワ寄せが確実に来るはずだ!と思ってる。それで良いという人には何も言うことはないけど、僕はキリギリスよりもアリとして生きようと思うだけだね。永遠の時間の中で、与えた者が与えただけのものを確実に手に入れる。その圧倒的に平等な因果律思想こそ、僕が心底感動したものだ。因果律に王道なし!なのだ。
愛しているから与えるんじゃなくて摂理がそうなっていると思うから与えればいいんじゃないかな。愛とは摂理そのものだと思うんだけど、愛か法則かどっちが先かといったら僕はやっぱり法則だと思うわけです。心のこもっていない利他行為に価値を見出すならどうしたってこういう考えになると思う。こういう考えを狡いとか思う人も居ると思うんだけど、これこそ宗教によってもたらされた弊害であって、そういう人は神を人間的存在に捉えていると思うのだが違うだろうか。神「さま」って言ってる時点で違うんじゃないかと。そしてその過程で後から愛情が付いてくることも一応信じてるわけ。それこそが自身に内在された神性ってやつだと思うから。
悪業について絶望してる人は、前世で地獄に堕ちる意味を考えてみたら良いと思う。そんなに前世で悪いことをしたんなら、地獄で悪業の報いは受けてると思うわけ。地獄で受けて地上でも受けるわけないだろう。それでは因果律が崩れる。地上のカルマは地上ならではという意味でやる気になって自ら選択したものだと思うんだよね。きっと克服出来るという前向きな信念のもとに。かっこいいじゃない〜。因果律は前向きに捉えるべきものだろうな。なにしろ永遠に続くというのだから。
神経症と折り合いが付いてからだと思うんだけど、気(波動)の感覚がさらに強くなった。やっぱ神経症というだけで妙な幽質のオーラを身にまとっていたんじゃないかと思うんだな。極端な確認癖は異質の波動を醸し出すっていうか。空気が読めない奴、計算出来ない奴・・・それは自分のことだったなと最近になってしみじみと実感してる。誰でも、その場の空気が読めているんだけどあえてこういう行動をしてみた、という時があるだろうけど、そういう洞察を働かせた場面の思い出にしがみついて心の中で自分を持ち上げたりしつつも、でも平均値は低いからその反動としての落ち込みってのがあったように思う。特に肉を多く食った時なんかはそうした感情が増幅されやすかった。陰波動の共鳴だな。
神経症系の人はこういう人が多い気がする。波動感覚が鈍いというかね。ある日ある集団の中に身を置く。重い空気が支配している。重い空気自体は強く感じるからまさか自分が鈍いとは思わない。そして自分が責められているような気がして参ってしまう。みんなが自分を排除しているように感じる。誰かが自分に冷たい言葉を一度吐く。ああやっぱりなと思って被害者意識を確信してしまう。逃げ出したくなる。ある面敏感で鋭く、ある面鈍いというのかな。実際にはその集団内での派閥争いとか個人的な怨恨とかが重い空気を生み出していたりするんだけどそういうことが見えない。表面的に仲良くしてたりするのを堅い結束だと信じてしまう。逃げ腰の姿勢は相手の悪い気と同調する。だから実際に排除される結果になるという悪循環。
こういうことを教えてくれる人は少ない。何故教えてくれないのか。それはスポーツのテクニックと似たようなもので主に感覚が支配する世界だからかなと。誰に教わるでもなくはじめからこういう感覚が鋭い人は誰にでもあると思って心の中でも詳細は言語化しないんじゃないかな。集団の中で上手く立ち振る舞っている人間は集団の外に居る人間を「変な奴」の一言で済ませてしまうことが多い印象がある。変な奴っていうか、気が異質なんだよね。
流行に敏感に乗りまくる人間。集団の動向を瞬時に察知し多数派に簡単に乗り換える人間。こういう風見鶏人間の気の感覚は鋭い。常に他人の目を意識し、集団の中で自分がどういう位置に居るかを思考の中心に据えて生きている。これは動物時代の名残なんじゃないだろうか。前世が犬か猫で初めて人間に生まれたとか。楽な人生なんてものは無いとは思うが、比較的楽だろ、とは思う。ボス的存在は強烈な気を放っていたりするが、霊格の高低とは無関係に違いない。波動の粗いレベルの話。所詮幽質だ。もちろん低いとも断言できないけれど。
誰かと一緒に居る。気を感じようという癖は既に付いてしまった。モワモワモワ〜っとした生暖かい気持ち悪いものが顔面から胸の辺りに来たりする。先入観とは反対に感じることもあるので、一応思い込みではないのだろう。存在自体は確信しているといっても良いかな。悪いものの方がずっと感じやすい。統計上、相手の資質は胸で感じ、感情は顔で感じる・・・気がする。モワモワイガイガ〜っとするか、ぽわ〜んっとあったかくなるかの違い。
しかし胸に悪いものを感じた時、波動レベルが低いなどと決め付け確信してはいけないと思う。絶対値として確信してはならない。波動はあくまでも相対的なものなのだ。相対的な資質と感情。相手は自分の鏡というだけ。本当のところは分からないという自覚が本当に大切だと思う。霊訓との付き合い方と同じだ。それを見失って確信してしまうから他人に押し付けたり威張ったりするんじゃないかな。組織にも近寄らない。感覚の優劣を競って上下関係の中で波動と付き合って行くようになると、自然に懐疑心も薄れるものだろう。精妙な「霊質」は摂理そのものの動き方をするのだろうが、これはあくまでも粗いレベルの「幽質」なのだ。幽質の法則っていうのがあるんだな、おそらく。物質レベルの波動に引きずられて生じた世界っていうか。
しかしフォローをするとこれだけでも対人恐怖や醜形恐怖等の改善には役立つと思う。自分だけでなく相手も緊張しているとか、自分を醜く思っていても相手には嫌われていないであろうことも強烈に想像出来るからだ。自分は案外嫌われていないし、自分は案外好かれていない。自意識過剰が解消される。現実は厳しいけど、無言の優しさを実感できるってこんなに大きいことだと思わなかった・・・。そう。世の中には無言の優しさがたくさんあるのだ!今のところ波動やって良かったっす。
嫌いな人間が居る。意識の表層ではかなり嫌いだ。でも胸にも顔にもモワモワを感じない。この人から学ぶものはもうあまりないのかな、とか思う。また、気や波動のもっともらしい説明と確信がいけないだけで、生来組織の中で上手く立ち振る舞っている人間は今の僕程度の感覚はあったのかもな、などとちらっと思う。
こうした気の感覚を軸に因果律等の摂理をダブらせると奥の深さが垣間見えた気にもなる。以前このページに「スピリチュアリズムを知ってから無愛想になった」と書いたけど、最近また愛想良くなってきたよ。笑顔でいる方があったかいものが実際多く返ってくるんだもの。そりゃ笑顔の方がいいんだなと思うわな。偽善についても同じだ。相手が喜んでくれているのが実感出来ると嬉しいよ。これに関してはホント、今のところ妄想でもいいな。良い循環を生み出すのに役立ってると思うから。今の自分にとって空気が読めるってこんな感じ。
もうかれこれ2年以上経つんだなぁー、瞑想(自律訓練法、波動訓練等)はじめてさ。1日10分は瞑想してる。元々少しずつ鋭くなってたけど今年に入ってまた急に伸びたからやはり神経症の大きな壁があったんだと思う。それとも瞑想してマイナス波動が体内から出されるイメージをしてたから神経症が治ったとか。色々やって来たからなんだか分からないけどさ。
不眠なんかは逆に気が分かりすぎると思うんだな。「気あたり」っていうか、相手から発せられた気の鋭利な感覚に疲れると眠れなくなっちゃうの。感じた気に疲れすぎて目が冴えて眠れない。これが続いた時は参ったよ。抑鬱はなかったけれど、眠れないという鬱病と構造的には被るんだろうなと感じた。違うだろうか。真性の鬱病の人はとにかくゆーっくり休むことが必要だってのは真理だね、きっと。
ただ、一応断っとくけどこれはヤバイんだよ。非常にヤバイ世界なのだ。トンデモな人を電波っていうけど、本当に些細なものから電波を実感してしまうようになってしまうかも知れないのだなぁ。電波と憑依の世界。白装束集団が理解出来るという世界だよ。馬鹿だと思ったらこの先は読まない方が良いです。気に関しては象気功さんと真気塾さんしか知らないし、これだけで充分だと思う。難解な用語なんか必要ない。利便性と危険性さえ理解していれば良いだけの話だ。
象気功 http://www.ne.jp/asahi/sakura/mankai/ki.htm
真気塾 http://www.amigo.ne.jp/~kazuktmr/
で、実は気に取り組む基本姿勢としては象気功さんの方がお勧めなんである。危険性について自覚するのが第一。「変態王国」という自覚もあるし^^; この点において真気塾は甘い。個人差ももっと強調されるべきだろうと思う。
http://www.ne.jp/asahi/sakura/mankai/kitohananika.htm
例えばこのページの上のほうにある図形。あなたはどう感じますか?僕は頭が痛くなって寒気がして鳥肌が立つんですよ。首の後ろの方がイタ痒くなる。うーん、ヤバイね。電波に片足突っ込んでるよな。潮時かな。そろそろ止めた方が良いのかも知れない。この辺り摂理に順じて生きれば乗り切れるような気もするんだけど、まだ怖いんだよね、正直。この先は迷ってる。
http://www.amigo.ne.jp/~kazuktmr/zakkityou.html
きこうしさんのこうした文章を読むと、挑戦課題としての困難の必要性や因果律の世界観が欠けているなとか思うんだけど、でも「たかが幽質、されど幽質」だと思うんだよね。二代目引田天功みたいに、血液全取っ換えしたら性格が変わってしまう人はやっぱり多いかなと思う。明るく前向きな人の血液。本当に鬱病や統合失調症を治したかったら闇医者を探してみるのも良いかも知れない。そんなことしたら修行じゃなくなっちゃうけどね。
きこうしさんの土地の浄化を図った行動は今も尊敬に値すると思っている。前世からの霊的カルマって本当は数少ない限られたもので、人間が現世で新たにこしらえた余計な幽質の壁、つまりはシルバーバーチが繰り返し述べる心配性や取り越し苦労の念が大半を占めるんじゃないかって気にもなってくる。とにかく幽質の解説に関してはきこうしさんは非常に優れていると思います。
僕は気の訓練に関しては「空気の読めない人がある程度気の感覚を掴むまで」だったら無条件に良いと思う。僕の今の位置までだったらいいんじゃないかと・・・軽くドアをノックしてみます。偽善と同じで、空気読むとか計算出来るとか書くと罪悪感が刺激されるような人がもしかして居るかも知れないんだけど、計算するからこそ相手に多くを与えられるんじゃないだろうか。純粋さからは遠ざかるかも知れないけどさ。
こういうことを書くといつも思い出す話がある。田口ランディの『モザイク』という小説の中に出てくる話。盗作ゴリラとかいうのも読んだけど、以下の文章は強烈なインパクトがあってね。誰も目くじら立てる人なんか居ないと思ってそのまま引用しちゃう。
『祖父母に引き取られたことは、お前にとって本当にラッキーだった。お前の祖父、つまり佐藤和紀の父親はなかなかの人物だった。著名な武道研究家であり、佐藤も父親の影響を多分に受けていると語っていた。じいさんは一人残された孫娘を見て、お前がどんな状態に置かれているのかを直感的に察知した。もしお前が、あのじいさんではなく、普通の大人に引き取られていたら、お前はまずどこかの精神病院に連れていかれ、そこでモルモットがわりの心理治療を受け、精神科医の手垢にまみれたいじけた神経症患者になっていたことだろう。
母親から育児放棄をされて、自我形成ができずにまとまりを失っていたお前に、じいさんは新しいOSを組み入れたんだ。母親の愛情とは異なるが、非常に性能の良い優れたOSだ。それが、お前が祖父から伝授された古武道だ。じいさんは武道というものを通してお前に身体感覚を教えた。そしてその優れた身体感覚を通して世界を知覚し認識することを教えた。子供になんでもかんでも愛情を注げばそれでいいというわけじゃない。人間にはそれぞれに得意不得意がある。じいさんががんばって母親のかわりになろうとしてもそれは無理だ。そのことをお前のじいさんは理解していた。だから、彼は彼がいちばん得意とする方法を四歳のお前に組み込んだのだ。実に正しい選択だったと思う。
この世界を生きる術は実は無数にある。先進国から一歩出れば、少数民族はみな、自分たち独自の方法で世界を認識して不自由なく生活している。日本人の大多数が選択しているOSは効率的かもしれないが絶対ではない。完璧でもない。そして優れてもいない。お前の祖父は一般論に頼ってお前を教育しようとはしなかった。だからお前は自分が普通ではない、という認識すらもたずに成長した。実際のところ、お前は集団社会の中では相当に変わった子供で、学校でもかなり浮いていた。浮いていたハズだが、その自覚はないだろう?』
『人が生きていくためには、他者との共鳴が必要だ。他者と関係しないでこの社会を生きていくことは困難だ。言語的コミュニケーションは確かに有効だが、それは他者との約束事を共有化するための、いわば表技だ。早い話が場を保つために必要なものであり、本質的な他者との共鳴には身体感覚をベースにした非言語的なコミュニケーションが必要となるのだ。なんらかの理由で自分というもののまとまりを欠いてしまった人間にとって、この非言語的なコミュニケーションの習得は実に困難となる。特に乳幼児期に他者からの虐待を受けた者は、一生涯にわたってこの身体的な共鳴感覚を獲得できずに悩み苦しんだりする。だが、それをお前の祖父は、はからずも古武道というものを通して、お前に教えたのだ。お前は愛情というものをよく知らない。だが、身体が共鳴する裏技だけはとっくの昔に習得している。意識するかしないかはともかくとして、コミュニケーションの達人に育ったわけだ。実にレアなケースだ』
『今の時代にとってお前みたいな存在が必要なんだよ。お前は母親の愛情という基本的OSを組み込まれずとも、身体的な共鳴と集中と発散を体得している。身体を安定させることによって精神を安定させている。何でも受け入れてしまうが、乗っ取られないで吐き出す』
・・・乗っ取られないで吐き出す・・・なんてまさに波動感覚だなと思ったよ。周囲を見渡してみると、幸福な人は運動神経の良い人が多い気がするんだな。偏見だとは思わないんだけど違うだろうか。運動神経の良い男性っていうのは大抵幼い頃に少年野球やサッカーを経験してる。古武道よりは粗雑かも知れないけど、スポーツで運動神経を鍛えることによって気の感覚も発達し、神経症とは無縁な人生を送ることが出来るんじゃないかな。
野球より古武道のようなスキンシップのある運動の方が上だと思ってる僕だけど、「イチローは中学を卒業するまで毎朝毎晩、父に足の裏をマッサージされていた」、という話なんかを読むとその思いはますます強くなる。毎朝毎晩足の裏をマッサージされた人間が自信を持たないはずがない。肉体人間が何に一番縛られているかっていうと、そりゃ重力だと思うんだよね。重力ってのはしつこいよ。肉体が滅びたって縛り続けるんだから。病める日も辛い日も、人間は生きていこうと思ったら二本の足で立たなければならない。そして立ったは良いが足が疲れてすぐに休みたくなる。その度に父親が一生懸命足の裏をマッサージしてくれた思い出が蘇るはずだ。愛された思い出が身体に焼き付いている。足の裏から応援されている気になる。足の裏と心の底の暗部がリンクしたりもする。頑張ろうと思うのが普通だろう。上に書いた古武道教わった子と同じで、イチローも「自分はこの場で浮いてるんじゃないか」という感覚を持ったことは殆ど無いと思う・・・多分。持ったとしても落ち込まないというか。大体父親と息子なんて言語的コミュニケーションが上手く行かないのが普通だと思うんだな。思春期など特に鬱陶しいだけだろう。そんな多感な時期に無言でもマッサージしてあげる。最高の愛情だよ。
波動っていえばシルバーバーチもこんなことを言ってる。『地上人類への最高の福音』より(←嫌なタイトルだね〜。近藤さんが考えたんだろうか。恥ずかしいから改めて欲しいやな)
『地上界は永い間の物質偏重の生活によって、霊性を鈍らせてしまったのです。人類もかつては目に見えない界層との連絡活動を盛んに行っていたのです。内在する永遠の実在の資質である霊的能力について、ちゃんとした認識があったのです。古い時代の記録、たとえばキリスト教のバイブルを細かくご覧になれば(といって、わたしがバイブルにこだわっていると思われては困りますが)太古にさかのぼるほど、心霊的能力が自然に使用されていたことがわかります。残念なことに、それが他の能力と同じように、使用されなくなるにつれて退化していき、今日では、霊的波動を捉えることのできる人は、ごくごく少数となってしまいました。
今日の人間は「牢」の中で暮らしているようなものです。その牢には小さな窓がたった五つしかついておりません。それが五感です。目に見え、耳に聞こえ、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌で感じるものだけを実在と思い、それ以外の、身のまわりに起きている無数の出来事には、まったく気づいていらっしゃいません。あなたが存在するその場所、およびその周辺には、次元の異なる世界がぎっしり詰まっていて、そこでも生命活動が活発に展開しているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。あなたの感覚ではその波動が捉えられないというだけのことです』
シルバーバーチは波動感覚が失われたことを「残念なこと」だと考えている。僕も基本的には同意なんだけど、俗に言う電波さんとなって気が狂ってしまう人の存在を考えると現代はあまりにも悪い波動が氾濫しているということか。
いい年をした卑屈な大人がこの過酷な世の中を生きていくための手段。そのために非常に有効なツールが気(波動)だと思うわけです。他人に矢印を向けるというサービス精神の次にね。大人になってから古武道をはじめてもなかなか上達しない。でも気なら大丈夫。年齢制限はない。どうしてこんな馬鹿なことをやってるの?って人も居ると思うんだけど、「どうしても目に見えない世界を実感したい!」って気持ちがあったからかな。元々オカルトファンだったというのもあるんだけど、霊訓を読むだけでなく実感が欲しかったんだ。スピリチュアリストです、じゃなくて霊訓ファンとかでも思想面しか知らない人が大半じゃないのかな。スピリチュアリズムの歴史というのは思想面と現象面から成り立っているのであり、実践が無いまでも現象にも詳しくないとちょっと違和感があるね。敢えてラベルを出すけど、そういう人達が真理探究者、摂理実践者と名乗るのなら分かるけど。困難な目に遭っても挫折しないための霊的世界観を維持していくには、現象面の理解って大きな助けになるとお節介ながら思うんだけどね。
http://kxk.makibishi.jp/index.html
こうしたページを読んでおくのも良いだろう。とにかく何かが素晴らしいと思い込んでしまったらその反対のことも調べるのが良いと僕は思う。
http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea.html
こうしたところを読んで中韓の実態に唖然としたら、何故日本人は彼らを甘やかしたのを知ろうとすべきだと思う。中韓の悪態を知れば自然に生じる疑問ではないだろうか。これは『人間を幸福にしない日本というシステム』という本が非常に分かりやすかった。
http://www.ac-net.org/common-sense/00b-wolferen.html
僕のような馬鹿にも分かりやすく、政治家を擁護しすぎている嫌いはあるものの全体的に名著だと思った。アメリカの大学では日本を勉強する教科書の定番になっているという話も読んだ。この本を簡単に説明するなら、「日本は大企業の利潤追求を第一目標としているために市民は幸福を実感出来ない、そのシステムは官僚が作った」、というものなんだけど、日本の実態は民主主義国家などではなく官僚主義国家だと僕も思うものなぁ。官僚が個人を犠牲にしたシステムを築き上げ、「しかたがない」という思想を蔓延させた。やり直しの利かない社会、長時間労働等に表立って文句を言わないのと、在日外国人にやりたい放題させてしまっているのは根が同じ問題だと思う。こうした本質を見抜き、その穴につけ込んで来たのが韓国ではないかな。
スキャンダルが白日の下に晒される議員よりも官僚の匿名性が怖い。この本で多用されてるんだけど「説明責任」という言葉が世の中でもっと使われるべきだろう。「電気用品安全法」なんていう無茶苦茶な法律を国会議員だけで考えたと思っている人が居そうなところが怖い。何十億円も掛けて建設された無益な公共施設、っていう突っ込みどころの多い間抜けな代物がテレビニュースで糾弾されたりしてるから実質的なボスが居るわけじゃなくて今のシステムを構築した過去の人物に問題があるとは思うんだけど、ホント純粋な議員立法ってあるんだろうかね。正直、地縁・血縁の強い韓国の方が民主主義が成立していると感じるし、フランス政府が導入しようとした雇用促進策に反抗する数十万人規模の暴動のニュースなんかを見ると、同じように民主主義という意味においては日本より余程発達しているように思う。フランスでは暴動、日本では引きこもりということなんだろうな。暴動なんて褒められたもんじゃないけど、引きこもりよりは寂しくないだろう。正直、寂しくない方が魅力的に感じる。そして『人間を幸福にしない・・・』等の官僚の腐敗を暴いた本を信奉してしまったと感じたらまたそれに反対する本等を読んで・・・。
だらだら書いてたらちょっと話がずれました。でまあとにかく目に見えない世界を実感したい気持ちが強いんだけど、ここまで書いたら体外離脱の話も外せないだろう。
楽しい体外離脱 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/
体外離脱訓練日誌 http://www003.upp.so-net.ne.jp/OOBE_DIARY/
ううう。以前言ってた方も居られたけど嫌な波動を感じてしまうのです^^; 鬼畜目的の者も多い世界なんだな。幽体離脱という言葉はオカルト用語だけど(もしかしたら元祖はスピリチュアリズムかな?)、体外離脱というのは脳内現象の可能性も含んだ言葉だから一応怪しくないはず(笑)。立花隆の「臨死体験」という本が有名だね。
興味を惹かれた方は是非上記のサイトを読まれて欲しいんだけど、僕は体外離脱で経験する世界に関しては「幽幻界」という表現が妥当な気がしている。幽界と脳内現象の混じった世界。幽界と現界の中間領域みたいな世界。明晰夢(夢の中で夢だと気付く)もそうなんだけど記憶の劣化が激しい。普通の夢とは違って明らかに能動的な体験をしたはずなのにすぐに忘れてしまう。・・・それは脳という限られた器の中に記憶を持ち帰れないからだ、とかいう知識を思い出す。
こうした経験の一つ一つが霊界の存在を身近なものにさせてくれる。金縛りに掛かりやすい体質の人は体外離脱も比較的容易だから試してみてはどうだろうか。僕も何度か成功したんだけど結構怖いんだよねこれ。妙な音楽が聞こえたり、居るはずの無い人のぼそぼそとした話し声がするんだ。でも空をフワフワと飛べたりする経験も捨てがたいんだけどね^^; あ〜僕も「かめはめ波」撃ってみたい・・・。シルバーバーチが幼児のおもちゃと言おうが、それを読んだ途端に幼児じゃなくなっちゃう人よりは大人だと思ってるよ^^; 夢の中で夢だと気付き、隣に居る人に「かめはめ波撃てるけどどうする?」と問われて撃たない人って少ないと思うけどなぁ・・・。
怖い経験抜きに不思議体験したいって人には明晰夢がお勧めだな。人類学者のカルロス・カスタネダという人がインディアンの呪術師ドン・ファンに教えられた方法だそうなんだけど、「夢の中で両手を見る」或いは「夢の中で空を見上げる」と眠りに就く前に自分に言い聞かせるだけというもの。この方法だと「今夜夢を夢と自覚する」とストレートに言い聞かせるよりも遥かに早いそうだ。僕は数ヶ月間こうした意識付けをして、ある日夢の中で両手を広げている自分に出会った。どういうわけか指が伸びたり欠けたりしているから夢だと気付いたんだよね。それは田舎の養鶏場のようなところで、大きな鳥籠の横に錆びたベルトコンベアがあって・・・ってこんなことを書いても仕方が無いので省くけど、本当に得がたい体験だよ明晰夢って。これももっと観てみたい。でもこういう世界って案の定というか、願望を実現するだのといった高額のレッスン教室とか色々あるんだよね。因果律を無視した世界観と高額を要求する人物には近寄らないのが無難だと思うね。
シルバーバーチの霊訓を読んでからというもの色んな事が好転した。また、好転しつつある。でも、何一つ好転しないどころか、逆に余計な混乱を生んでしまったという人も意外と多い気がする。この違いは一体何なのだろうか。それは僕の霊格が高いから、というのは正味の話が真っ赤な大嘘で、霊格の低さを思い知ったところに端を発してるんですね。
頭を髪の毛の形に黒く塗っている人を僕は都内で複数人見た事があるんだけど、ぶははははと笑ってしまう自分を受け入れるところから全ては始まると思うんです(笑いのツボは人それぞれであり、日内変動も珍しいものではないと思います。一応)。
絶対に嘲笑してはならない!たとえ心の中であっても!あぁ!あの人も頭黒く塗ってる!明らかに塗ってます〜!あの人はフェルト貼ってる!(実際に居るらしい)・・・プッ・・・・・・!!!・・・神様!ごめんなさい!笑ってしまいました!なんて可哀相なことを!
・・・って大袈裟に書いたけどふざけんなっての。無意識に近いところで自分を大したものだと位置付けているその傲慢さこそ気付けっての。・・・といっても他人を変えられるはずがなく、そうした人からしたら僕みたいのが傲慢なんだろうけどね。
ペーパーさんも書かれているんだけど、幸福のキーワードは
偽善にあると思うんです。
ゴールのない永遠の生命であるなら、霊的成長などという糞つまらないものより幸福という観点を優先させるべきではないだろうか。幸福→霊的成長の順でいいじゃないかと。神さんは進級を急かしてなんかいない。ちょっとくらい早く進級したからといってそれがなんだっていうの。急いでも後で薄暗いスナックで説教する修行が待ってると思うし。
霊訓とニューエイジをいつまでも読み比べていたりする人なんかは偽善が出来ないんだと思うが違うだろうか。偽善には偽善が返ってくる。それが自然法則だ。でもそんなに悪いもんだとは思わないよ。100%の偽善なんて無いもの。何十%の善で充分満足出来ちまう。お互いその程度の器しかないんだものそれでいいじゃないか。
満たされてから与えると考えている人も偽善が出来ないという点で同じ気がする。100%の愛情とか満たされるとか・・・幻想だと思うんだけどな。そんなものは何処にも無い。おそらく死んでも無い。今日素晴らしいと思っても明日には簡単に色褪せる。それが永遠の生命ということではないだろうか。
偽善のコツなんか無い。偽善は偽善だ。ある日突然始めるしかない。シルバーバーチも「こんな薄暗い地上になんか戻って来たくない」って言ってるんだしさ。でも地上人のため、っていう動機が半分よりちょっと上回ったんだろ。
頭を黒く塗った人が知人だとして、ねえその頭おかしいよと指摘する動機は嘲笑から始まってる。しかしそれだけじゃない。思いやりの気持ちがトータルで半分を上回るなら動機として充分合格点ではないだろうか。ま、余程近い関係で指摘するとしたらね(こういう人は大抵人格障害者だろう。でも軽くドアをノックするくらいは試してみてもいいんじゃないかな)。
偏差値40には40なりの学習方法がある。今でもぶっちゃけ偏差値45くらいだぞ、多分^^;
僕は高級霊なんて諦めましたよ^^v
※トップページに掲載していたマザー・テレサの言葉を削除した。彼女のことは相変わらず尊敬してるんだけど、今の僕とあまりにかけ離れていると感じたので。
強迫観念が浮き彫りになったと書いたけど、そうなると今まで或る物事を拡大解釈していたことがダイレクトに理解出来るようになる。それはつまりは妄想と現実の区別が出来るということだ。
僕の現実。・・・このまま上手く行くならの話だが・・・もう言い訳は出来ないということだ。ゼロね。社会不適応者の部分を自分にも言い訳出来ない。・・・って書くと悲壮感たっぷりのような感じもあるけど、集中力がレベルアップするって気持ち良いな。難易度の差は格段にあったけど、禁煙本(禁煙セラピー)で上手く行ったのと同じパターンを経験してる。
そして細かいことが好きだなんて嘘!!
それしか出来ないからそう思い込もうとしただけで、結局無理があったんだな。
最近「女神さま」と題して今回と反することを書いたけど、開き直れば夜明け前が一番暗いということかな^^; 楽しいのは最初だけで、労働になると強迫行為が強迫観念に拍車を掛けるだけというのが現実だった。だから余計に辛さを味わって社会不適応者の部分は拡大した。
強迫性障害というと取っ付きづらいかも知れないが、つまりは心配性、取り越し苦労の具現化だ。極端に、病的に心配性だったんです。「見つめないようにする」「考えないようにする」、それは普遍的真理で、でもそれには大掛かりな準備が必要だったわけです、僕の場合は。
真性の鬱病等を除いて、病というのは自らの治したいという意思が最も重要なのだと今は強く思う。それには自己愛が必要で、自己愛の無い者がそれを手に入れるためには無私の行為が効果的だと僕は相変わらず考えているんだよね。無私の行為で自己愛が養われ、だから治す方法を色々探るようになる。一見ただの受け身であるスピリチュアル・ヒーリングなどでも、自分の意思で調べて足を運んだ人の方が治癒率が高いと思うが違うだろうか。
■無私の利他→自己愛養成→意欲→治癒の可能性が格段に向上
といったことを自然法則だと認識している。無私の利他なんていきなりは無理だから偽善から入る。そうすれば上手く回転する人が僕以外にもきっと居る。
変わりつつある僕から、これからこのサイトに出会うであろう、たったひとりのあなたへ
強迫行為をやめることによって強迫観念が浮き彫りになった気がする。より意識されるようになった。自分は今ままでなんと無駄なことをして来たのかと思う。無駄というか無駄な動きだな。身体だけの問題に置き換えたら、強迫性障害とは極端に運動神経の悪い人のようなものだ。
他人の無駄な動きの無さ加減についてイコール冷たさのように解釈したことも多かったと思う。このサイトで偽善のススメをしてきたけど、偽善単体に付随する贅肉みたいな余分なものを色々抱えていたように思う。自分の美意識の問題だけどね。まあつまりは自己満足の部分が明確になったというか。
このサイトは「たった一人のために」を意識してやって来て、それは身の程をわきまえたそれなりに意味のあることだと思ってるんだけど、でもやっぱりそれなりにしか過ぎなくて、それを逸脱した感情は自己満足だよなって改めて実感した。自己満足を全否定するわけじゃないんだけど、それを忘れると時に人は暴走する。そんな人はネットにたくさんいるが。
「晒してますよね」なんて何人かの方に言われたけど、いやこんなの大したことないですよ。書ける範囲でしか書いてないし、ここ読んでる人なんて数十人がせいぜいだと思うし。
でもこんな風に自分の弱さや小ささを実感すると、他人のそれも実感できるようになる気がする。
20代前半くらいまでの、ガアガア騒いで言いたいこと言ったモン勝ち!みたいな空気ってあれ一体なんだったのかな。随分人を傷つけてきたと思うし、自分も同じように傷ついてきた。
・・・とまあ暗くなって色々書いたけど、この無駄が他人に還元できたら良いなって思う。そう、「還元」なのだ。元の状態に戻すこと。奪ってしまったものを返さなきゃ、なんて思ってる。
もしこのまま強迫性障害から解放されるなら・・・ここからはじまるんだな。